2010年8月アーカイブ

東洋のベニス

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DSCF0209.jpg館林の友好都市である中国・昆山(クンシャン)市は人口60万人。日本企業の進出も多い近代的な町です。

その一方で、古い町並みがそのまま残っている地域もあり、特に「周庄」地区は入り組んだ路地や水路を小舟にのって移動する水郷地帯。この小舟観光が有名です。

船頭さんが歌を歌いながら観光案内してくれるそうで、次男は「茨城県潮来(いたこ)旅行を思い出した」などと言っておりました。

インターネットで検索すると、周庄地区は「東洋のベニス」ともよばれているそうです。http://blogs.yahoo.co.jp/fwgh4006/55448651.html

東方明珠電視塔

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DSCF0223.jpg次男が4泊5日の中国・昆山(クンシャン)市への親善旅行から帰ってきましたので、次男撮影によるデジカメの中から、好適な写真数点をご紹介しましょう。

中国への友好旅行のため中学生を乗せた飛行機は、羽田を出発して上海(シャンハイ)国際虹橋空港に降り立ちました。上海は人口950万人と中国一の規模であり、浦東と虹橋2つの国際空港を持っているのです。

昆山市はここから約40キロ。バスで40分ほどの距離ですが、どうやら中学生たちはしばしの上海観光を楽しんだようです。

この写真は私も登ったことのある、上海の「東方明珠電視塔」です。高さが468メートルあり、墨田区の東京スカイツリーが完成するまではアジア1高いテレビ塔なのです。

テレビ塔上のラウンジには透明な強化プラスチック製の床があり、デジカメには、中学生の足元から近代的な上海のビル街が写っている記念写真が何枚も保存されていました。

DSC03318.jpgこのゲームをご存知ですか?

象棋(シャンチィ)といいます。

中央に楚河と漢界があって、自陣と敵陣を分けている中国における将棋に似たゲーム。日本ではまさに「中国将棋」と呼んでいますが、「シャンチィ」が正しい名前です。

館林と中国・昆山(クンシャン)市が友好都市になっており、この夏20人ほどの中学生が昆山市にホームステイし、サッカーの交流試合を楽しむことになりました。

私の中学生の次男がこの交流試合に派遣されることになったので、ホームステイ先で楽しめるように象棋を覚えることにしたのです。

といっても館林に象棋の盤と駒は売っていませんので、インターネットの入門サイトから画像を切り取って印刷し、丸い象棋の駒をおはじきに貼り付けて厚みを出しました。象棋について、詳しくはhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~shg/80496703/ 

お盆の送り火

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DSC03316.jpg8月13日に先祖代々のお墓にご先祖様をお迎えに行き、先祖の霊を自宅にこしらえた飾り棚に安置します。

この期間は夏休みでもあることから、若い人は「どうせ里帰りするならお盆。これに合わせて同窓会でもやろうか」ということになります。

私の家には仏壇もないのに息子はやはりお盆の頃に里帰りし、高校生の娘も「今日は同窓会なの」と言っていました。

8月16日は送り火でご先祖様をお送りします。写真のようにナスの馬に乗せて差し上げるのが館林における風習で、お線香と一緒にお盆の飾り棚の縄などを燃やします。

昔は「オガラ」と呼ばれる麻の短冊を燃やしました。このように、ナスの馬にて送り火の煙に乗ってご先祖様は黄泉(よみ)の国に帰っていくのです。

新暦と旧暦

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DSC03315.jpg尾曳城伝説連載のため紹介が遅れましたが、館林地方においては8月13日がお盆の入り。8月16日がお盆の送りでした。

若い人も見ていますから記しますが、江戸時代までは旧暦(太陰暦)の7月15日がお盆でした。

明治初期になって欧米のように新暦(太陽暦)を採用することになり、新暦と旧暦では約1ヶ月の違いがあることから、地方では旧暦の7月つまり新暦の8月にお盆を行うようになったのです。

本来7月7日であるべき七夕祭りを、館林では8月7日に行うのもこの理由によるものです。ちなみに東京では、いまも七夕もお盆も新暦の7月に行っています。

オニバスの開花

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DSC03312.jpgほとんど毎朝通い詰めて、ようやく絶滅危惧種であるオニバスの開花を見ることができました。

固い蕾の状態で親ハスの葉を突き破って水面上に顔を出し、花を開きます。

私は以前からこのブログで「固い蕾だ」「なかなか全開にならない」と嘆き続けてきました。

例えば8月17日の写真もそうですが、あのくらいの状態でオニバスは開花というのかもしれませんね。

この花は岸辺近くに咲いたので、上部から写真を撮ることができたのですが、池の中程に咲いたものを横から眺めると「やはり蕾だ」と嘆いていたかもしれません。

池面には50近い花が顔を出していますので、これから1週間ほどが見頃なのかな。

ツバメの子

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DSC03276.jpg近所の家の軒下にあるツバメの巣。

子どもたちが大きくなって写真に撮れるようになりました。

日本中どこにでもあるようなのどかな風景ですが、最近親ツバメがせっせと小さな虫を捕まえ次々と運んでくる姿に、じーんと感動を覚えるようになりました。

この大きさまで育てば、巣立ちの時期ももう少しですね。

本当に暑い!

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DSC03307.jpg今年は全国的に暑い夏という傾向があるようですが、7月の猛暑日(気温が35度以上になった日)の数が、館林は12日間で全国最多だったそうです。

2位が埼玉県熊谷市と、岐阜県多治見市。ちなみにこの2つの市は2007年8月16日に40.9度という日本最高気温をマークしている「暑い町」のライバル!?

今年の8月18日、館林市役所前に建てられている温度計は、15時現在との表示で36度を示していました。

実は私、この温度計の仕組みには少々不満があります。せっかく「日本一暑いまち」をアピールするのなら、「本日の最高気温」を表示するべきだし、市役所前の設置もよいけれど、もう一つ館林駅前にも同様のものを設置しなければ徹底を欠いています。

この日夕方のテレビニュースで「館林が38.2度で最も暑かった」と報道されていましたが、この温度計ではその写真が撮れませんでした。

痛車イベント

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DSC03292.jpg館林におけるイベント広場として何度か紹介している館林市役所の東にある広場(通称・市役所東広場)ですが、8月7日に通りがかると『痛車イベント』が行われていました。

「痛車」というのは、車のコスプレ版です。

東広場はけっこう広いのですが、会場いっぱいに華やかなお化粧をした車が並んでいました。その数50台以上!

このようなブログを見つけましたので、詳しくはこちらをご覧ください。http://tatebayashicos.web.fc2.com/index.html

 

DSC03280.jpg歴史好きの私とすると、お隣・行田市における古代蓮の話を続けたいのですが、ともかく城沼のハスが2千年の眠りから覚めた古代蓮と同種であるという紹介にとどめて先を急ぎます。

このハスの特徴は旺盛な生命力にあり、十数年前に沼畔の一部に親苗を植えたところ、毎年増殖して夏には沼面を覆うほどになりました。

花が蓮の葉より高い位置に咲くのも特徴の一つで、花ハス観光用に適している種類なので選ばれたのでしょう。

開花した花の寿命は2~3日なのだそうで、蓮群の中に創られた一本の水路を縫うように船は右に左にと進みます。

見頃の花の近くに来ると船頭さんが船を止めて撮影タイム。花ハス観光は7月から8月にかけての1ヶ月間続きます。

花ハス遊覧船

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DSC03281.jpg春には「つつじが岡公園」への渡船として活躍してきた城沼の小舟ですが、7月からは「花ハス遊覧船」として、第二の働きをしています。

城沼が4月から5月には「つつじ」で彩られ、7月から8月には沼畔が「朝鮮蓮」で埋め尽くされるのです。こうした花の時期の城沼遊覧船は大活躍ですね。

この朝鮮蓮は、お隣の埼玉県行田市の「古代蓮の里」のハスと同一種だと言われています。

行田市の古代蓮は、古墳時代に咲き誇ったハスが埋もれ長い期間眠りについていたのですが、道路工事をキッカケに掘り起こされ、2千年ぶりに復活して花が咲いたのです。

DSC03300.jpg「四中の森」と呼ばれる旧・蛇沼に、絶滅危惧種であるオニバスの池があることを以前にご紹介しましたね。

7月24日に「オニバスの蕾が出てきた。あと1週間くらいで花を見ることができそうだ」という記事を書いたのですが、それから3週間も経つのに蕾の状態はほとんど変わりません。

こんな固い蕾の花は初めて見ました。

こうなるとよけい開花時期が待ち遠しくなるのですが、7月24日当時は5~6個だった池の蕾が、お盆を迎えて30~40個ほどに増え、次々とシワのある親葉を突き破ってきましたので、開花の時期もいよいよ近いのでしょう。

七夕イベント

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DSC03298.jpg8月7日は館林の七夕まつりの日でしたが、正直なところ寂しいイベントでした。

その原因はハッキリしています。かつて7月上旬が館林まつり、8月が七夕まつりというローテーションが決まっていたのですが、7月の館林まつりは梅雨の時期で、パレード参加の人々がいつも雨に降られてさんざんだったのです。

そこで館林まつりの日程を2週間ほど後に移動したのですが、今度は商店街が「おいおい、月に2度もイベントはやってられないよ」と参加しない傾向が増えてきたのです。

このあたりは来年以降の市当局による調整を期待しますが、その寂しさを救ってくれたのが沖縄県名護市による「エイサー踊り」でした。

館林市と名護市は友好都市なのです。写真はエイサー踊りに参加してくれた名護市子供会の記念写真。子供たちの向こうに、ささやかな七夕まつりの笹飾りがはためいています。

DSC00538.jpg築城後、照光は城の本丸の鬼門(北東)にあたるところに、神社を建てました。

これが尾曳稲荷神社です。

(絵・町田左門  文・田島義利)

DSC00537.jpg照光は、不思議なことだと思って、この地に城を築きました。

後に関東の名城といわれた尾曳城(=館林城)は、こうしてできたと伝えられています。

(絵・町田左門  文・田島義利)

DSC00536.jpgこれは「夜明稲荷」です。

加法師町(現在朝日町)にあります。

照光に別れを告げたといわれるところで、ここで夜が明けたといわれています。

 (絵・町田左門  文・田島義利)

注:夜明稲荷は6月21日縞参照。

DSC00535.jpgふと気づくと、夜が明けていた。

 (絵・町田左門  文・田島義利)

DSC00534.jpg加法師の原野にいたると、私の主人の稲荷の神は、お城ができたら長く城下にとどまってお守りしようとお思いですので、速やかにお祭りをしてください。

と言って、かき消すように姿を消した。

(絵・町田左門  文・田島義利)

注:加法師(かぼうし)は、現在いくつかの町名に別れていますが、「加法師町」という町名も残っています。

DSC00533.jpgこれは「初曳稲荷」です。
 
谷越町(現在本町3丁目)
にあります。初曳は読んで字の通り、尾の曳き初め。

昔この一帯を「待辺」と呼んでいたので、「待辺の稲荷」ともいいます。

(絵・町田左門  文・田島義利)

注1:初曳(はつびき)稲荷。6月20日縞参照。

注2:待辺は「しべ」と読みます。

DSC00532.jpgすると、白い狐が現れて先に立った。

照光も決心してその後に続くと、ここが本丸、 そこに二の丸、あちらは三の丸と尾を曳き(=引き)ながら案内した。

(絵・町田左門  文・田島義利)

DSC00531.jpgその年の七夕の夜、再び現れた新左衛門は、なぜ築城を思い立たないのかと問い、今宵は幸い月が明るい。

案内いたしますから、決心をしてください、と言いました。

(絵・町田左門  文・田島義利)

DSC00529.jpgその夜・・・。
 
「我は大袋の守り神の眷属(=
神様のお使い)、新左衛門なるぞ。今朝、我が子狐を助けてくれた恩は忘れぬ。

御身(=あなた)の居城より、沼の北岸館林は要害の地なり。速やかに移らせ給え(=お移りなさい)。」

しかし、照光は決心がつきませんでした。

(絵・町田左門  文・田島義利)

DSC00528.jpg「二度と捕まるでないぞ。」  と、狐の子を放してやりました。

(絵・町田左門  文・田島義利)

注:まるで『浦島太郎伝説』のようですね。

DSC00527.jpg

あわれに思った照光は、子 どもたちを諭し、銭(=お金) を与えました。

(絵・町田左門  文・田島義利)

注1:照光とは大袋城の城主である赤井照光。

注2:尾曳城とは館林城の別称。

DSC00526.jpg八、九歳の子どもたちが、狐の子を捕らえて、いじめていました。

 (絵・町田左門  文・田島義利)

注:絵をお描きになった町田左門先生(故人)は北小学校(現在の第一小学校)で、主に図工と音楽を教えていらっしゃった先生です。

DSC00525.jpgお正月のお祝いに出かけようと、少しばかりのお供をつれて、近藤林(注1)にさしかかったときです。

  (絵・町田左門  文・田島義利)

注1:現・館林近藤町。関連記事はブログ内検索を「近藤」のキーワードでしてください。

『赤井照光』は邑楽郡全域を治めていた『佐貫(さぬき)』氏の一族。おそらく親戚への年始挨拶に出かけたときのことであろう。

◎尾曳稲荷神社の宮司・田島義利様より、本ブログにおける公開許諾を頂きましたので、これから十数日間、紙芝居風に『尾曳城伝説』を発表します。

DSC00524.jpgいまは、昔。 (今となっては昔のことですが)

大袋城(城沼南岸)の城主、赤井照光という殿様がいました。

(絵・町田左門  文・田島義利)

注:尾曳稲荷神社の宮司・田島義利様より、本ブログにおける公開許諾を頂きましたので、これから十数日間、紙芝居風に『尾曳城伝説』を発表します。

ムクドリの旋回

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DSC03253.jpg椋鳥(ムクドリ)はかつて「田畑の虫を食べる益鳥」といわれていました。

ところが住まいとする自然が少なくなり、人間の生活エリアに入り込んでくると、「糞害・騒音をまき散らしながら、果実を食い荒らす害鳥」というレッテルをつけられつつあるようで、一面では気の毒な気もします。

館林のムクドリは、城沼体育館周辺の木々をねぐらとしているようです。

薄暮時になると周辺の電線に集合し、数十匹の集団が飛び立つと、次々に合流して数千匹という大群でねぐら上空を大声で啼きながら何度も旋回するのです。

おそらくカラスや野バトなどを大群の旋回行為で威嚇しながら、慎重にねぐらの安全を確認しているのだと思います。

さきほど夜が明けました。早朝のムクドリの大群は電線にもとまらず、一直線に田園地域をめざして飛び散っていきました。

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