館林かるたの最近のブログ記事

館林かるた

| コメント(0) | トラックバック(0)

  CIMG0489.jpg

この1年、このブログの『館林かるた』に関するホームページ部分を拡充整理していました。

この新規ホームページを昨年秋に、群馬県視聴覚コンクールに出展させていただきましたところ、なんと!ありがたいことに『優秀賞』表彰を頂戴しました。

写真はそのとき戴いた楯です。

『館林かるた』のみを収録したホームページのアドレスは『http://komaoto.sakura.ne.jp/karuta』です。

一区切りつきましたので、今度はこちらのブログ用に撮りためた写真と記事を徐々に公開いたしますのでお楽しみください。

文化の礎

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN2241.JPG芸術ホール前には『開けゆく文化の礎三の丸』という「館林かるた」の碑が建っています。

江戸時代にこのあたりは城の三の丸があった所ですが、明治初期に館林町の半分ほどを消失させた大火事により、焼け野が原になってしまいました。

そこで広大な空き地を再活用して、現在では市役所、文化会館、図書館、芸術ホール、資料館、イベント広場、駐車場・・・などが配置され、館林の文化発信の礎になっているのです。

ちなみに、道路を隔てた向かい側には『夢はるか二十五万石綱吉公』という、かつての館林城を読み込んだ碑が建っており、この周辺を1キロほど丹念に散策すると、10基ほどの館林かるたの碑を目にすることができます。

三の丸芸術ホール

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCF0315.jpg館林でもっとも収容能力のあるイベントホールは「文化会館」で、1000人以上の観客席がありますが、私が参加・観覧する機会が多いのは「三の丸芸術ホール」です。

観客席が500人強と十分なキャパシティーがあり、その割に施設利用料も安価らしく、友人たちの演奏会や発表会はここで行われることが多いのです。

ロケーションも市役所に近く、図書館や文化会館の正面と町の中心部にあり、駐車スペースもたっぷりという環境にあり、このあたりが公共の施設のありがたいところですね。 

常光寺と格天井

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1596.jpg常光寺には「田山花袋の姉の墓」の他に、「格天井」という文化財があり、館林かるたには「翠雲(すいうん)の絵筆あざやか格天井」と詠まれています。

翠雲とは、館林出身の日本画家で帝国芸術院の会員として活躍した「小室翠雲」のこと。

翠雲は生家に近い常光寺の格子天井に「格天井花鳥図」を描き、茂林寺にも「孔雀図」を遺しています。

茂林寺は本堂が公開されていますので、拝観のおりに「孔雀図」を見ることができますが、常光寺の「花鳥図」は普段一般公開されていませんので、機会があればぜひ拝見したいものだと思っています。

田山花袋

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCF0328.jpg上毛かるたには、館林を題材にしたものが3種類収録されています。

その1つが「誇る文豪田山花袋」で、花袋は館林藩士の息子として幼い頃に館林で教育を受け、若くして上京した後は従軍記者や雑誌編集者の辛苦を経て、自然主義文学を確立した明治を代表する大文学者です。

図書館に併設された第一資料館での「かるた特別展」は11月7日まで。花袋の遺品が数多く展示され、足跡をたどれる「田山花袋記念館」と「旧・田山家屋敷」は、第一資料館からはほんの200メートルです。

街路樹もすっかり秋色が濃くなってきました。城町に足を伸ばして「文学の秋」を楽しんでみてはいかがですか?

上毛かるた

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCF0331.jpg他の地域に行ったおり群馬県出身者と出会ったときは、この秘訣を知っていれば話題に困ることはありません。

それは『上毛かるた』の思い出話。「館林は鶴舞う形の群馬県の目のあたりです」なんて話し出せば、すぐに「オレの実家は(鶴の)左羽の部分、沼田さ」なんて答えが返ってきて、盛り上がること請け合いです。

上毛かるたは郷土かるたの代表作で、これを模した館林かるたのように、群馬県には106種類もの郷土かるたがあるのです。もちろんこれは日本一!の多数に及びます。

ちなみに第2位は埼玉県の63種類。以下3位新潟県27種類、4位長野県22種類、5位栃木県21種類といった順位で、すべて群馬県と隣接している県であることが上毛かるたの存在の大きさを物語っています。

「雷(らい)と空風(からっかぜ)義理人情」いずれも群馬県の名物ですが、板倉には雷電神社全国総本宮があり、この地域の人は雷のことを、今でも「らいさま」と呼んでいます。

館林かるた

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCF0322.jpg いま市立図書館に併設されている資料館にて、『かるた』の特別展が催されています。

かるたのルーツは、平安時代から遊ばれている「貝合わせ」にまでさかのぼります。

ポルトガルから、紙製の板を意味する「carta」が日本にもたらされました。それはトランプのようなものでしたが、日本では1対のものを合わせるゲーム「歌留多」「かるた」になりました。

ちなみに「carta」という言葉は、英語では「card(カード)」となり、ドイツ語では「karte(カルテ)」と変化しましたが、いずれも紙製の板であることは共通しています。

これまで御影石でできた「館林かるた」の碑は何度か紹介しましたが、かるた自体の紹介は初めてですね。この特別展は11月7日までと、かなり日が迫っていますから、興味のある方はこの週末にぜひ資料館へと足をお運びください。

城沼とボート

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1870.JPGこのブログでたびたび登場する城沼(じょうぬま)は多々良沼、近藤沼と並び、館林を代表する湖沼です。

館林の歴史や自然などさまざまな要素をもつ城沼ですが、館林かるたには「るり色に光る城沼ボートこぐ」とあります。

沼畔にボート格納所が造られ、館林高校と館林女子高が練習場とするなど、城沼がボート競技の舞台として注目を集めつつあるからです。

7月10日、11日は第65回国体の団体関東ブロック大会が開催されるのです。

DSCN1535.jpg高速道路の無料実験が話題になっていますね。

東京の友人を招くときに「東北道で来ると、館林インターまで1時間弱ですよ」と説明するのですが、「えっ!群馬県なのに、東北道なの?」と驚く人もいるんです。

群馬県の高速道路といえばまずは「関越道」。そして高崎周辺で分岐する「信越道」がイメージされるようですが、群馬の南東部・館林を貫いているのは東北道です。

物流の担い手も、少しずつ鉄道から車両に移ってきているようで、工場や住宅も徐々に駅付近からインター付近へと移ってきているようです。

尾曳城の真相

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1649.jpg尾曳神社の社殿脇に、「館林ふるさと自慢百選」いわゆる「館林かるた碑」が建っています。

『老狐の恩返し照光築いた尾曳城』この文言は、ここ数日紹介した館林城築城の伝説に由来していることはお分かり頂けるでしょう。

この赤井照光が築城なった尾曳城に入城したのは、享禄4年(1532年)というのが定説だったのですが、お隣・太田市に残っていた古文書に「文明2年(1470年)太田道灌らが、館林城を80余日攻囲した」との記述が残っていることが分かりました。

つまり照光の時代より、少なくとも60年以上前には館林城が存在していたわけで、狐の尾曳築城は城の神秘性を増すための伝説である可能性が高かったのですね。

普済寺の銅鐘

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSC03039.jpg普済寺について紹介したいことはたくさんありますが、何といっても銅鐘についてふれなくてはいけません。

館林かるたに「慶安の音を秘めた銅(あか)い鐘」とあります。

江戸初期の慶安2年(1649年)に、羽継村(かつてはこの字を用いていたのですね)の三人が呼びかけ人となり、地域の人たちの助けを得てお金を集め、下野国(栃木県)佐野の鋳物師に注文して作られたものです。

この銅鐘は館林の重要文化財に指定され、今も山門をくぐったところのケース内に飾られています。

写真に写っている鐘は二代目。この鐘と比較すると、慶安のものはやや細長く、乳というのでしょうか細工の数が多い特徴があります。

普済寺は他に「しだれ桜の布袋尊」の愛称もあり、館林七福神の一つに数えられています。

毎年4月には桜見物の参拝客が訪れます。

普済寺の山門

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSC03037.jpg館林の東南部にある羽附町に「普済寺(ふさいじ)」という曹洞宗の古刹があります。

私がいつ訪れても、寺の人が清掃か庭の手入れをしているといった印象があり、とても心地のよいお寺です。

特に私が好きなのはここの山門で、茅葺き屋根の二階建て。「誰でも受け入れ」られるように扉がなく、禅苑に多い作りだと思います。

門の向こうに見える大きな対(つい)のイチョウの木が、山門と見事に調和してします。

ちなみにここ羽附町にて長禄3年(1454年)に、関東の武士が二分されて激突する「羽継原の合戦」という戦いがあり、この合戦記は家紋を研究する上において不可欠の資料となっているのだそうです。

初山祭り

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSC03009.jpg5月31日と6月1日は富士嶽神社の初山祭り。別名「ペッタンコ祭り」の奇祭がある日です。

1歳未満の赤ちゃんを抱えて富士山を模した小山を登り、頂上にある神社で赤ちゃんの額(ひたい)に、神主から無病息災を祈る神印を押してもらうのです。

私も50数年前にこの神社で「ペッタンコ」と額に神印を頂戴したおかげか、これまで息災に過ごしてきました。

人生で初めての富士山参りをした赤ちゃんの家は、『初山』と大書したうちわを大量に作ってご近所に祝意をお裾分けをする風習があることから、館林に住む人の家にはほとんど初山うちわがあります。

同じような奇祭を武蔵国(埼玉県)では「初山参り」と表現することが多いようですが、下野国(栃木県)足利では「初山祭」。その中間に位置する上野国(群馬県)館林では「初山祭り」と、表現が微妙に入り組んでいます。 

富士嶽神社

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1483.jpg館林市の南西に位置する富士原という地域に、『富士嶽神社』があります。

江戸や北関東に多い富士山信仰を表現した神社で、かつての赤生田村、羽附村、松原村、新宿村、谷越村、小桑原村、青柳村、近藤村、堀工村九ケ村の郷社となっています。

『富士浅間神社』との別名もあることから、地元の人は「富士原の浅間さま」と呼んでおり、4百年以上前の古文書にも、小山を登り本物の富士山を仰ぎ見ながら神社にお参りする、という風習があったことが記されています。

館林かるたには「ペッタンコ初山祭りの富士嶽神社」とあります。

藤野天光

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1635.jpg藤野天光(てんこう)は明治36年に館林町裏宿(現・館林市城町)に生まれた彫刻家で、本名は隆秋(たかあき)、号は舜生。のちに天光と改めました。

東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業して北村西望に師事し、彫刻家として最高の芸術院賞なども受賞しました。

北村西望といえば長崎の「平和祈念像」が有名ですが、天光は「平和国家の建設には文化が第一」の信念のもと、師の西望とともに祈念像の制作筆頭助手を務めました。

館林かるたにも「彫刻でその名を知られた藤野天光」とあります。

館林周辺にある高校の修学旅行先として、長崎市を訪れることが多いようですが、長崎平和祈念公園の祈念像とともに写真に収まるとき、「この像を造った一人が館林の先輩」であることを思い起こすと、また何か違った感慨があるかもしれません。

DSCN1807+1.jpg鶴生田川の北側には、文化会館、芸術ホール、図書館、郷土資料館、向井千秋記念子ども科学館、田山花袋文学館、第二資料館などの文化施設が立ち並んでいます。

対する鶴生田川の南側には、城沼(じょうぬま)総合運動公園が整備されています。

館林かるたに「汗流し心ふれあう運動公園」とありますが、よその町から来た人に「正直なところ、人口8万人の町にはもったいないような施設群ですね」と感心されるくらいです。

市民プール、城沼体育館、陸上競技場、野球場、多目的広場に加えて、テニスコートは8面も揃っていて、どれも個人ならば1日数百円、団体競技ならば2~3千円で使用することができるのですから、スポーツ好きにはたまりません。

田山花袋の詩

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1731.jpg移築した田山花袋旧家の右端に、小さく写っている石碑がこれです。

元々の田山家は今の尾曳町、城沼の畔あたりに位置しており、花袋の少年時代は毎日のように沼を見て暮らしたと思われます。

自然あふれていた沼が、だんだんに田畑に変わっていく景色を見て、花袋はこう詠みました・・・「田とすかれ畑と打れてよしきりもすまずなりたる沼ぞかなしき」

よしきりは夏の飛来鳥で、おもに水辺のヨシ原などを好むスズメくらいの鳥。

古里館林を詠んだ詩の多い花袋の、代表作といわれています。

お辻の墓

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1552.jpg「なぜ花山公園に、10万株以上のつつじの木が群生しているの?」という質問が届けられましたので、つつじが岡公園の話題が続いている機会にお答えしておきましょう。

400年ほど前徳川家が関東に移封されたときに、館林の城主として指名されたのが、徳川四天王の一人「榊原康政」でした。

康政公の愛妾に「お辻の方」という人がおりましたが、康政公の寵愛が深かったことから他の妻妾たちの嫉妬を一身に受けてしまい、その意地悪に耐えられず城沼に身を投げ命を絶ってしまいました。

康政公はこのことをとても嘆き、お辻の方が葬られた「善長寺」から見えるようにと、城沼を隔てた南の小山につつじを一苗たむけました。

家来や領民が康政公にならって、つつじの苗を次々と植えたことが「つつじが岡公園」の発祥だといわれています。

館林市役所

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN2297.JPGこの「花と緑のぐんまづくり」イベントに合わせるように、館林でも「歴史の小径」でスタンプラリーを行っています。

館林駅を始点に、歴史の小径を通って市役所までの約2キロ。8ヶ所のポイントでスタンプを集めるという企画で、4つ以上のスタンプを集めれば景品が当たる抽選に参加できます。

写真は終点に設定された、つつじと八重桜と花水木に囲まれた館林市役所。ここにスタンプラリーの抽選会場が設けられています。

ちなみに、館林かるたには「二の丸にそびえる市庁舎赤レンガ」とあります。

近藤沼

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN2324.JPG「地球温暖化」の心配が世界中で叫ばれていますが、縄文時代の温暖な気候のときにはたしかに北極と南極の氷が溶けて世界中の海面が上昇したらしく、東京湾が館林の近くまで押し寄せていました。

いわゆる「縄文海進」ですが、それ以上の太古には、利根川と渡良瀬川が何度も氾濫を繰り返しており、そのなごりとして館林には多くの沼が残っているのです。

近藤沼もその一つ。

子どもの頃(館林市と明和町の境を流れる谷田川の水源はどこなんだろう?)と考えた私は、自転車で谷田川土手をひたすら上流へと走っていき、たどり着いたのが近藤沼でした。

野鳥の森

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN2364.JPG久々に「館林かるた」の碑を登場させましょう。

館林には「館林ふるさと自慢百選」と題した大理石の碑が、名所旧跡に建っています。

たいていは「館林かるた」の絵柄陶版が添えられているのですが、私が館林じゅうを調査散歩した結論としては、館林かるたのすべてが石碑として存在しているのではない一方、百選ですから館林かるた以外の石碑も存在しています。

さて、これは「のどやかな野鳥の森と低地湿原」という大理石の碑。

茂林寺沼はかつて天然記念物の「むじな藻」が自生していた沼。冬になると白鳥の飛来もある自然たっぷりの沼です。

ちなみにむじな藻は、のちに植物学の権威となった牧野富太郎博士が28歳のときに発見した珍種で、水面を浮遊しながら動物プランクトンを補食する食虫植物。

農薬により絶滅寸前の藻で、いまは茂林寺沼でも生息を確認できなくなり、わずかに利根川対岸の羽生市にのみ保育されています。

 

岩にむす苔

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN2244.JPG館林カルタに『乱に散る生田萬は人のため』とあります。

萬が館林藩士だった頃、館林藩松平(越智)家は20万両(現在で約200億円!)を超える巨額の借金にあえいでいました。

そこで萬は「岩にむす苔」と題した上申書を松平斉厚(まつだいら・なりあつ)に提出します。

内容はごく一部の幹部藩士のみを政務に当たらせ、残るは農兵とし農業の振興を第一に考える。目安箱を設置し人々の意見を聞く。国学を基盤とする藩校の再建。などでした。

岩にむす苔とは萬自身のことで、「岩にむす苔のむしろの薄くとも八重の一重に敷かばしかなむ」という詩を添え、「こんな私でもお役に立てるかもしれません」という熱情を長文の建白書に込めました。

しかしあまりにも急進的だった萬の熱情は、むしろ藩主・斉厚の怒りをかうところとなり、ついには藩を追放されてしまったのです。

その後江戸の平田篤胤のもとで国学をいっそう熱心に学び、塾頭として代講を任されるまでになったになった萬は、上州に戻ってお隣の新田郡太田(太田市)にて厚載館という塾を開き、やがて求められて越後国柏崎(新潟県柏崎市)に妻子とともに移り住み、桜園塾を開くのです。

生祠・秋元宮

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1539.jpg弘化2年(1845年)に館林藩主となった秋元志朝(ゆきとも)は、周辺町村の調査を行い、赤生田(あこうだ)村は用排水の便の悪い低湿地で、田畑が広さの割には収穫が見込めないことを知りました。

旧来、年貢は田畑の広さによって一定とされてきたのですが、志朝は実質の収穫高に応じて徴税するよう改めました。

また安政5年(1856年)には赤生田村を大洪水が襲ったのですが、志朝はこのときも救済船を出し、米や味噌を与えて村人を励ましました。

村人はこの善政や思徳を永く後世に伝えるため、「生祠・秋元宮」を作ったのです。

館林カルタにも「生き神と崇めてまつる秋元宮」とあります。石碑面に描かれたようにごく小さな石の祠ですが、村人たちの感謝の念がギッシリと詰まっています。

すはまや

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1616.jpg旧・本紺屋町碑から道を隔てた反対側に、『すはまや』という漬け物ショップがあります。

館林カルタにも「見わたせば野菜と稲田かぎりなく」というものがあるように、館林は野菜の産地でもありますので、それを材料にした漬け物生産も昔から盛んだったのです。

特に『すはまや』は大洋食品として、大規模に生産と販売をしている会社で、現在は郊外の苗木町に工場と直売所がありますが、こちらは歴史の小径販売所とでもいうべき存在でしょうか。

お好みの野菜をたまり漬け、みそ漬けなどにしたおみやげは、温かいご飯にピッタリです。

正田貞一郎

| コメント(5) | トラックバック(1)

DSCN1743+1.jpg三代目正田文右衛門の次男に作次郎という人がおりました。その息子が貞一郎です。

作次郎が26歳にて急逝したことで、貞一郎は祖父である三代目文右衛門のもとで実業家としての薫陶を受けることになります。

現・一橋大学に学び、しばらくは祖父の醤油醸造業を手伝っていた貞一郎ですが、館林が麦の産地であることなどに鑑み、「館林製粉」という製粉業を創立しました。
館林製粉はやがて合併などを経て、こんにちの『日清製粉』グループとなりました。

貞一郎は館林経済の牽引役となり、また館林の物流を支える東武鉄道の会長も務め、のちに貴族院議員に勅撰されました。

こうした実績から館林最初の名誉市民として顕彰されたのです。館林カルタには「苦心して製粉おこした貞一郎」と詠われており、駅に隣接した日清製粉工場には明治の頃の事務所を保存した日清製粉記念館があります。

この貞一郎が美智子皇后陛下のお祖父ちゃんであり、そうした縁から戦時中に皇后・美智子さまは東京の戦火を避け、正田家のルーツである館林に疎開することになったのです。

多々良沼

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1884.JPG地域農民の犠牲となった18人の名主さんを奉る 日向地蔵尊のお参りが終わったら、そこから南方向に向かって歩きだすこと約1キロで多々良沼が見えてきます。

多々良沼は館林カルタには「多々良沼銀鱗おどる追込漁」と詠われており、館林で一番漁獲高のある沼ですが、最近はそれ以上に「白鳥が飛来する沼」として知られるようになりました。

越冬ばかりか、一年を通してこの沼に居着いてしまう白鳥も多く、私が訪れたこの日も釣り人とともに白鳥が迎えてくれました。

あいにく追い込み漁はそろそろシーズンオフでお休みの日でしたが、それを行う日向漁協の舟と釣り人の間を白鳥は何も怖がらず悠々と遊び回っています。

いよいよこれから、北の地から越冬のための白鳥が飛来するシーズンで、多々良沼の冬には百羽以上の白鳥が餌と自然を求めて羽を休めに来るのです。

日向義民地蔵

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1703.jpg東武鉄道伊勢崎線の各駅停車で館林を過ぎると、『多々良(たたら)』という駅に停まります。

多々良は歴史と自然いっぱいの地域。まずは多々良駅を背に南に歩き出してみると、まもなく国道122号線にぶつかります。

ここに『日向(ひなた)義民地蔵』があります。

江戸の昔、1俵が3斗5合であるところをこの地域の役人が「目こぼし」と称して1斗余分に徴収するという不正が横行していました。

「これではたまらん」と百姓が立ち上がり、近在の名主18人が代表して江戸の領主に対し、ご法度である直訴に及んだのです。

このおかげで年貢は本来の1俵3斗5合の計算に戻りましたが、直訴というご法度を犯した名主18人はこの日向の刑場において処刑されてしまったのです。

館林カルタには「手を合わす日向の義民地蔵尊」とあるように、あれから4百年を経た今でも日向の人々はお地蔵様に赤いべべを着せ、毎日お供えを欠かさず冥福を祈り続けているのです。

楽しい下水栓

| コメント(2) | トラックバック(0)

1700.gif茂林寺も当然『館林ふるさと自慢』に選ばれていますから、館林カルタにも「茂林寺の童話で名高い分福茶釜」と詠われており、大理石のカルタ碑の写真をゲットすることができます。

毎度カルタ写真ばかりでは面白みがないでしょうから、変わった下水栓つまりマンホールのフタをご紹介しましょう。

カラフルでかわいいでしょう?

中央に熱さに耐えきれず手足を出してしまった分福茶釜。周辺に「世界一」と言われる花山のつつじをあしらっています。

茂林寺まで来たなら、「平地の尾瀬」と呼ばれる茂林寺沼と平地湿原、さらに野鳥の森公園へと足を伸ばしたいところですが、館林には他にもたくさん紹介したい自然や名所旧跡があり、今日はこれくらいにとどめておきます。

茂林寺

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1659.jpg東京から各駅停車の電車で館林駅に向かうと、一つ前に『茂林寺(もりんじ)前』駅があります。

茂林寺は応永33年(1426年)大林正通禅師が開山した曹洞宗の大寺です。

写真は最初の総門をくぐり、茅葺きの朱門までの参道を撮ったものですが、左右に25体もの狸の像が並んでいるのが他の寺との大きな違い。

そう!この茂林寺は「茶釜に化けた狸が和尚らに恩返しをする」という分福茶釜伝説の生まれた寺で、今も寺の中には歴史的な価値のある古文書とともに、分福茶釜や狸コレクションが展示されています。

田中正造

| コメント(4) | トラックバック(0)

DSCN1750.jpg館林の北を流れる渡良瀬(わたらせ)川は、かつて上流の足尾銅山の鉱毒によって周辺住民が悩まされた日本最初の公害事件の舞台でもありました。

田中正造は川向こうの栃木県佐野の人ですが、代議士になり生涯住民の先頭に立って足尾鉱毒事件に立ち向かった信念の人。私が最も尊敬する人であり、私に生きる指針を与えてくれた人でもあるのです。

館林カルタに「鉱毒にいのちのかぎり田中正造」とあります。

「栃木県の人がなぜ館林カルタに?」と疑問を持つ方もいらっしゃるでしょうが、鉱毒反対運動の拠点は館林の雲竜寺に設けられ、正造は渡良瀬川のほとりにあるこの寺に葬られたのです。

館林駅から佐野線に乗りかえて一つめの渡良瀬駅付近には『田中正造記念館』があり、ここは田中正造研究のメッカともなっています。

徳川綱吉公

| コメント(2) | トラックバック(0)

DSCN1642.jpg徳川綱吉公は徳川三代将軍・家光公の四男であり、館林藩の藩主となりました。

当時は水戸二十四万石を上回る石高で、館林は北関東一の大藩でした。そこで館林カルタには「夢はるか二十五万石綱吉公」と詠まれたわけです。

藩主当時の綱吉の官位は正三位参議であったことから、「館林宰相」と呼ばれていたそうです。

その後、兄の四代将軍・家綱に子がなく早世したことから、綱吉が徳川五代将軍となり、館林藩はわずか2歳の徳松君が藩主となりましたが、徳松君も4歳で幼折したことから廃藩となり、館林は一時天領となりました。

ところで「生類憐れみの令」などによって、こんにちでは何かと評判の悪い綱吉公ですが、傾きかけていた江戸幕府の財政を積極的な経済政策で立て直し、元禄の繁栄期を創出した「天和の治」として見直されつつあります。

赤城神社

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1757.jpg館林カルタをめくっていたら「ムカデ絵馬 赤城神社の守り神」というものがありました。

神社仏閣めぐりの好きな私は「えっ!となりの板倉町の間違いじゃないの?」と疑いました。

正直なところ館林に赤城神社というものがあることを知らなかったのです。

板倉町の赤城神社は古墳でもあり、この古墳から『三角縁仏獣鏡』(神獣鏡ではないんです)という珍しい鏡が発見され、群馬県の重要文化財になっているので発見場所を何度か訪れたことがあったのです。

赤城山は榛名山、妙義山とともに「上毛三山」と呼ばれる名峰で、特に県の中央に位置しているので群馬県における山岳信仰の代表的存在。

それゆえ館林に赤城神社があっても何の不思議もなかったのですが・・・

訪れてみると、新興住宅街の中央にありながら静かな居住まいで存在していました。

神社の説明によると「新田義重の守り神である赤城神社を勧請し、明治初期には足次、岡野、早川田、新田ら八か村の郷社として指定され・・・」とあります。

村を代表する神社が村社、近郷を代表する神社が郷社ですから、私の住まいとは縁の薄い地域のこととはいえ、これほど由緒ある神社を知らなかったとは冷汗三斗の思いです。

水と緑の館林

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN1810.JPG私が生まれ育ち、そしていま住んでいる館林市は群馬県の東の端に位置しています。

徳川五代将軍綱吉ゆかりの地であるなど、歴史と文化のかおり豊かな町。それでいて、水と緑に囲まれた自然豊かな環境があります。

37歳のときにUターンしてきた私の一番の趣味は『散歩』。

デジカメを片手に、自然、歴史、人物などなど、目にふれるもの何でもに興味を示し、1日6キロくらいを2時間かけてゆっくりと散歩するんです。

 写真は『館林カルタ』の1つを表示した石柱碑。

「うるおいの水と緑のまちづくり」と市の理念が彫られています。

この『館林カルタ』の石柱碑すべてを写真に収めるのも私の散歩目的の一つ。

全部紹介するまでに何ヶ月、いや何年かかることでしょうか?

カレンダー

<   2012年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち館林かるたカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは話題です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。