七福神の最近のブログ記事

初詣

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DSCF3717.jpg「長良神社」における、平成23年の初詣の様子は先に紹介しましたが、一眠りをしたのち元旦の昼間は尾曳稲荷神社に行きました。

「長良神社」「尾曳神社」ともに館林七福神に数えられる郷社です。

長い参道に2百人くらいの人が並んでいて、お参りをすませるまでに40分くらいかかってしまいましたが、日頃散歩するコースの中心に位置していますので、除災招福と学問成就をしっかりお願いしたのです。

神輿初め

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DSCF3666.jpgこの長良神社の神輿渡御には、館林中の神輿好きが集まります。

神社裏手にある法泉寺の除夜の鐘が聞こえる中で、担ぎ手が次々に代わって、神社に模した神輿を渡御します。

年が改まる5分前に担ぎ納めをし、午前0時の新年の合図にて、宮司の「元旦祈願」に一同が心を合わせるのです。

こうして0時5分からまた神輿渡御が始まります。神輿は各地区の睦が誰でも参加することができ、これが「神輿の担ぎ初め」。

これを見に来る初詣の客も多く、代官町の長良神社の風物詩となっています。

長良睦会

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DSCF3656.jpgなにしろ館林でもっとも卒業生の多い第一小学校と、第一中学校を神域に持つ長良神社ですから、境内を通学路や遊び場にした・・・などの思い出を持つ昔の暴れん坊が多いのです。

「神木の木登りをして宮司に叱られたことがあったなあ・・」これは私です。

そんな「長良神社に思い入れのある」連中が長じて長良睦会を創りました。

館林まつりにおける神輿渡御(みこしとぎょ)で知られている睦ですが、大晦日から新年にかけての渡御も見もの。大晦日の23時30分くらいから、長良様に神輿の奉納をして親睦を深めながら担ぎ納めするのです。

長良神社

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DSCN1718.jpg館林第一小学校と第一中学校に隣接した地域に『長良(ながら)神社』があります。

長良神社の祭神は、平安京より東国平治のために遣わされた「藤原長良」公(802年~856年)で、長良公は東国にあって民を哀れみ、貧を救って仁恵を施したと伝えられています。

京に戻った長良公は位を極め、正一位・太政大臣を贈られており、陽成天皇の外祖父となっていますから、まさに「雲上人」でした。

『長良神社』は鎌倉時代の領主と思われる「赤井良遠」が、京の春日大社から佐貫の荘・長柄の瀬戸井村(現・千代田町)上の森に勧進したと伝えられています。

赤井氏は佐貫一族の出自であり、遠祖が藤原であったことから、長良(一説には「ながよし」)公を祭神とした神社を建立したものと思われます。

そのような理由で佐貫の荘(現在の館林・邑楽地区)には、長良神社の分社が数多く造られており、この代官町にある長良神社は社域の広さと社殿の壮麗さから、館林・邑楽地区における代表的な存在です。

普済寺の紫陽花

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DSC03049+1.jpg梅雨にイメージする花といえば「紫陽花(あじさい)」ですね。東京に住んでいたときには、友人に誘われてこの時期の鎌倉を散策し、紫陽花を堪能しました。

北関東では大平山(大平町)の紫陽花が有名。同じ群馬県では渋川市に、その名も「小野池あじさい公園」という名所があるのを聞いたことがあります。

「花の町」を標榜する館林ですが、紫陽花の名所と呼ばれる公園はないようですが、私がイチオシなのは羽附町・普済寺の紫陽花です。

この寺は館林七福神の1つでもあり、館林かるたにも登場する古刹なのです。

普済寺の銅鐘

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DSC03039.jpg普済寺について紹介したいことはたくさんありますが、何といっても銅鐘についてふれなくてはいけません。

館林かるたに「慶安の音を秘めた銅(あか)い鐘」とあります。

江戸初期の慶安2年(1649年)に、羽継村(かつてはこの字を用いていたのですね)の三人が呼びかけ人となり、地域の人たちの助けを得てお金を集め、下野国(栃木県)佐野の鋳物師に注文して作られたものです。

この銅鐘は館林の重要文化財に指定され、今も山門をくぐったところのケース内に飾られています。

写真に写っている鐘は二代目。この鐘と比較すると、慶安のものはやや細長く、乳というのでしょうか細工の数が多い特徴があります。

普済寺は他に「しだれ桜の布袋尊」の愛称もあり、館林七福神の一つに数えられています。

毎年4月には桜見物の参拝客が訪れます。

普済寺の山門

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DSC03037.jpg館林の東南部にある羽附町に「普済寺(ふさいじ)」という曹洞宗の古刹があります。

私がいつ訪れても、寺の人が清掃か庭の手入れをしているといった印象があり、とても心地のよいお寺です。

特に私が好きなのはここの山門で、茅葺き屋根の二階建て。「誰でも受け入れ」られるように扉がなく、禅苑に多い作りだと思います。

門の向こうに見える大きな対(つい)のイチョウの木が、山門と見事に調和してします。

ちなみにここ羽附町にて長禄3年(1454年)に、関東の武士が二分されて激突する「羽継原の合戦」という戦いがあり、この合戦記は家紋を研究する上において不可欠の資料となっているのだそうです。

寿老尊

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DSCN1553.jpg榊原康正公の愛妾「お辻の方」が葬られている「善長寺」は、大道寺と並んで館林藩士家の菩提が多いお寺です。

館林かるたに「ねたまれたお辻お松の善長寺」とあります。ちなみに、お松はお辻づきの腰元。

この善長寺は館林七福神の一つに数えられており、寿老尊が祀られています。

善長寺は館林藩と縁の深いお寺なので、お辻の方ばかりではなく、榊原第三代忠次のご母堂の墓や、北辰一刀流の開祖・千葉周作の師と称する杉江剣士の墓があるなど、館林の時の流れを感じさせてくれる名刹です。

お辻の墓

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DSCN1552.jpg「なぜ花山公園に、10万株以上のつつじの木が群生しているの?」という質問が届けられましたので、つつじが岡公園の話題が続いている機会にお答えしておきましょう。

400年ほど前徳川家が関東に移封されたときに、館林の城主として指名されたのが、徳川四天王の一人「榊原康政」でした。

康政公の愛妾に「お辻の方」という人がおりましたが、康政公の寵愛が深かったことから他の妻妾たちの嫉妬を一身に受けてしまい、その意地悪に耐えられず城沼に身を投げ命を絶ってしまいました。

康政公はこのことをとても嘆き、お辻の方が葬られた「善長寺」から見えるようにと、城沼を隔てた南の小山につつじを一苗たむけました。

家来や領民が康政公にならって、つつじの苗を次々と植えたことが「つつじが岡公園」の発祥だといわれています。

館林の弁財天

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DSCN2407.JPGスタンプラリーの終着駅・市役所より郊外にあるためか、『尾曳(おびき)神社』はラリーの中継点にカウントされていませんが、館林を代表する大きな神社の一つです。

尾曳神社については書きたいことがいろいろあり、これまでこのブログで紹介していなかったのが不思議なくらいですが、今回は館林七福神の一つとして「弁財天」を紹介することにしましょう。

この弁財天は、「市杵島比売命(いちきしまひめみこと)」を祀ってあり、かつては城沼内の浮島に存在し「江島神社」と呼ばれていました。

城沼が徐々に干拓され、浮島がなくなった頃に尾曳神社の敷地周辺に勧請されたものです。

雷電神社総本社

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DSCN2151.JPG福禄寿で雷電神社の話題に及びましたので、もう少し話を続けます。

板倉町の雷電神社は日本中にある雷電神社の総本社で、社伝や古文書によれば「推古天皇6年(598年)に聖徳太子がこの地をお通りになった際に神の声を聞かれ、祠を建ててお祀りしたのが最初」とのことです。

「群馬県で最も古い建造物」との認定があるようですが、現在の社殿は徳川五代将軍・綱吉が館林の城主だった頃に寄進したもので、要所に葵の御紋が散りばめられています。

驚くべきは神殿の外回りで、日光東照宮を想像させる木彫りのレリーフが極彩色を放っており、「左甚五郎第十代」なる署名が誇らしげに飾られているのです。

福禄寿

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DSCN2152.JPG館林七福神の「福禄寿」だけは、お隣の板倉町にある雷電神社に存在しています。

「福」は子孫繁栄の象徴、「禄」は経済的に恵まれる象徴、そして「寿」は健康長寿の象徴というわけで、「福禄寿」はまことに贅沢な神様なのです。

館林七福神に板倉町の神様が選ばれるくらいですから、この隣町は館林の兄弟のような存在で、私はよく板倉東洋大前の駅を用います。

雷電神社ですから雷の神。となると怖いイメージがつきまといますが、雷は田畑に雨をもたらす五穀豊穣の守り神でもあるのです。

善導寺

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DSCN1548.jpg毘沙門天のある善導寺は、分福茶釜の茂林寺とともに館林を代表する名刹です。

和銅元年(708年)に行基菩薩によって創建されたとのことですから、実に1300年以上の歴史を重ねてきたことになります。

この善導寺は従来館林駅の周辺にあり、保育園なども併設されていました。私はこの善導寺保育園を卒園したので、特別な想いのあるお寺なのです。

その後、市街地の発展のために現在の楠町に移転したのですが、ここはつつじヶ岡公園や城沼に臨んで趣あふれる地域であり、周囲の静寂が以前にも増して寺に荘厳さを与えているようです。

 

毘沙門天

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DSCN1551.jpg七福神の話題に及びましたので、もう少し話を続けましょう。

七福神の一人・毘沙門天は善導寺に安置されています。

戦国時代の名将・上杉謙信が毘沙門天を深く信仰し、「毘」の1字を戦旗としたことで有名なように毘沙門天は戦勝の神様。

それゆえ隣の太田市(旧・新田郡)を本領とした新田義貞公も守り本尊としており、これが善導寺に伝わって今日に至っているようです。

館林七福神

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DSCN2139.JPG『つつじの館林七福神めぐり』というイベントがあります。

館林の七福神は決まっていますから1年中神様めぐりはできるのですが、新年から31日までにかけて指定された神社仏閣を訪れると、色紙に記念スタンプを押してくれるので、この時期はイベント期間中といった趣があるのです。

最近は「館林七福神めぐりのイベントバス」が運行される日もあって、バスに揺られて記念スタンプを集めながら、名物の大根そばに舌鼓といったお手軽コースもあるのです。

写真の色紙は11年前に、小学生の我が子たちと館林七福神の総道程25キロほどを、自転車でめぐったときの記念です。

茂林寺

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DSCN1659.jpg東京から各駅停車の電車で館林駅に向かうと、一つ前に『茂林寺(もりんじ)前』駅があります。

茂林寺は応永33年(1426年)大林正通禅師が開山した曹洞宗の大寺です。

写真は最初の総門をくぐり、茅葺きの朱門までの参道を撮ったものですが、左右に25体もの狸の像が並んでいるのが他の寺との大きな違い。

そう!この茂林寺は「茶釜に化けた狸が和尚らに恩返しをする」という分福茶釜伝説の生まれた寺で、今も寺の中には歴史的な価値のある古文書とともに、分福茶釜や狸コレクションが展示されています。

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