七福神の最近のブログ記事
館林第一小学校と第一中学校に隣接した地域に『長良(ながら)神社』があります。
長良神社の祭神は、平安京より東国平治のために遣わされた「藤原長良」公(802年~856年)で、長良公は東国にあって民を哀れみ、貧を救って仁恵を施したと伝えられています。
京に戻った長良公は位を極め、正一位・太政大臣を贈られており、陽成天皇の外祖父となっていますから、まさに「雲上人」でした。
『長良神社』は鎌倉時代の領主と思われる「赤井良遠」が、京の春日大社から佐貫の荘・長柄の瀬戸井村(現・千代田町)上の森に勧進したと伝えられています。
赤井氏は佐貫一族の出自であり、遠祖が藤原であったことから、長良(一説には「ながよし」)公を祭神とした神社を建立したものと思われます。
そのような理由で佐貫の荘(現在の館林・邑楽地区)には、長良神社の分社が数多く造られており、この代官町にある長良神社は社域の広さと社殿の壮麗さから、館林・邑楽地区における代表的な存在です。
普済寺について紹介したいことはたくさんありますが、何といっても銅鐘についてふれなくてはいけません。
館林かるたに「慶安の音を秘めた銅(あか)い鐘」とあります。
江戸初期の慶安2年(1649年)に、羽継村(かつてはこの字を用いていたのですね)の三人が呼びかけ人となり、地域の人たちの助けを得てお金を集め、下野国(栃木県)佐野の鋳物師に注文して作られたものです。
この銅鐘は館林の重要文化財に指定され、今も山門をくぐったところのケース内に飾られています。
写真に写っている鐘は二代目。この鐘と比較すると、慶安のものはやや細長く、乳というのでしょうか細工の数が多い特徴があります。
普済寺は他に「しだれ桜の布袋尊」の愛称もあり、館林七福神の一つに数えられています。
毎年4月には桜見物の参拝客が訪れます。
「なぜ花山公園に、10万株以上のつつじの木が群生しているの?」という質問が届けられましたので、つつじが岡公園の話題が続いている機会にお答えしておきましょう。
400年ほど前徳川家が関東に移封されたときに、館林の城主として指名されたのが、徳川四天王の一人「榊原康政」でした。
康政公の愛妾に「お辻の方」という人がおりましたが、康政公の寵愛が深かったことから他の妻妾たちの嫉妬を一身に受けてしまい、その意地悪に耐えられず城沼に身を投げ命を絶ってしまいました。
康政公はこのことをとても嘆き、お辻の方が葬られた「善長寺」から見えるようにと、城沼を隔てた南の小山につつじを一苗たむけました。
家来や領民が康政公にならって、つつじの苗を次々と植えたことが「つつじが岡公園」の発祥だといわれています。
